すきなもの

すきなものを、すきなだけ

「知的生産の技術」感想

 故 梅棹忠夫著「知的生産の技術」を読みました。知識を規格化することで扱いやすくし、体系的に知的生産を行おうという内容です。

 

以下印象に残った点

どんな規格品をつかっていても、それによってつくりだされる知的生産物が個性的・創造的であればよいのである (P87)

裏を返せば、個性的・創造的なアウトプットは没個性的なフレームワークからでも達成できるという話。「センス」の一言で片付けないためにも、いい戒めの言葉になると思いました。

 

整理は、機能の秩序の問題であり、整頓は、形式の秩序の問題である

(P91)

整理された棚はものを探しやすいけど、整頓しかされてない棚は探しにくいよなっていう感覚を言葉にして受容できたのですごくすっきりしました。

 

知的生産の技術のひとつの要点は、できるだけ障害物をとりのぞいてなめらかな水路をつくることによって、日常の知的活動にともなう情緒的乱流をとりのぞくことだといってよいだろう。精神の層流状態を確保する技術だといってもよい。努力によってえられるものは、精神の安静なのである。

(P107)

無秩序に詰めこむのではなく整理することで引き出しやすくするというのは物でも情報でも同じだよな~、整理されてた方が落ち着くよな~と、受験生のころに必死に日本史を詰めこんで心が荒んでいたのを思い出しました。

 

第二に、「自分」というものは、時間とともに、たちまち「他人」になってしまうものである。形式や技法を無視していたのでは、すぐに、自分でもなんのことがかいてあるのか、わからなくなってしまう。日記というものは、時間を異にした「自分」という「他人」との文通である、とかんがえておいたほうがよい。手紙に形式があるように、日記にも形式が必要である。

(P180)

高校生の頃に勢いや感情に任せて書きまくってたブログも、今読み返してみると何について書いてたのかよく分からないものがけっこうあるし、客観的に秩序立てて書くことって大事だな、、、と過ぎ去った日々を思いながらしみじみ反省。

 

ものごとは、記憶せずに記録する。はじめから、記憶しようという努力はあきらめて、なるだけこまめに記録をとることに努力する。これは、科学者にかぎらず、知的生産にたずさわるものの、基本的な心得であろう。

(P189)

これは常々考えていたことだったので、改めて人の文章で読めることが嬉しかったです。知識そのものは忘れてもいい状態にして整理しておく。整理しておけば、いつでも引き出せるし脳内にも余裕を作ることができる。検索のしかたさえ覚えておけば何でも見つけられるインターネットみたいな。

 

くりかえしていうことだが、わたしたちの社会の、制度化された教育体系では、達成された成果を次代につたえるということには、なかなか熱心であったが、その達成までの技術を開発し、発展させようという気もちは、あまりなかったようにおもわれる。技術の開発と発展のためには、成果よりも、それにいたるまでの経過の記録と、その分析がたいせつである。ところが、そのほうは、信じられないくらいおそまつなのである。

(P193)

スポーツの指導でも、やるべき練習とか練習メニューの意味は教えてくれるけど、どのようにしてその練習をするに至ったかまでは教えてくれないことがある気がします。ベストなのは、必要な練習メニューをゼロから自分で考えられるようになれること。だけど、そんなのみんなができるわけではないので、ゼロから考えられる人の知恵を広めるというのも大切なのかなと思いました。(ゼロから考えられない人の甘えた感想)

 

以上

本読むの苦手だけど、頑張って読んで、感想も書いていこうと思います。